魂を救う時間はあるよ(映画「ゴッドファーザーⅢ」より)

物語の主人公、イタリア系マフィアのボス、マイケル・コルレオーネは、とある相談のためにカトリック教会のランベルト枢機卿を訪ねます。憔悴しきったマイケルの姿に、枢機卿は懺悔を勧めますが、マイケルは「もう30年も懺悔などしていません。一体どこからはじめればいいのか、私の罪は神の救いを超えています。お時間を取らせることになります。」と辞退を申し出ます。それに対して枢機卿は即座に応えます。「魂を救う時間はあるよ」

このシーンをはじめて見たとき、僧侶である私はハッとさせられました。

日々の法務(月命日、法事、葬儀、境内の掃除など)や事務仕事に追われる私に、枢機卿の言葉が問いかけます。「宗教者として大切なことを忘れていないか、目の前にいる人とちゃんと向き合えているか」と。

私に魂を救う力はありませんが、話を聞くことならできるのではないかと考えました。しかし、心に秘めた苦悩を誰彼構わず打ち明ける人などいるでしょうか。相手への信頼あってのことでしょう。では信頼に値する人とはどんな人なのでしょう。

私たち浄土真宗の宗祖、親鸞聖人は、多くの門弟たちを抱えながらも、「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」『歎異抄』第六条(真宗聖典628頁)と述べられました。阿弥陀如来(ご本尊)の前では、誰もが煩悩を抱えた凡夫であり、一仏弟子。阿弥陀如来が救うと誓われた尊い存在として、すべての人を敬われました。

目の前の方を敬う親鸞聖人の姿に、この人なら私のことをわかってくれると、多くの人が心を開いたのでしょう。

親鸞聖人をはじめ、無数の念仏者が、本願念仏の教えにわが身を聞いて生きよと、私に呼びかけてくださっています。

蓮尾 康行

MONTHLY

今月の言葉

今月のことば34

「南無阿弥陀仏」、それは形のない「仏さまの願い」が表された「名」。南無阿弥陀仏とお念仏を称え、その名をとおして私たちを救おうとする「仏さまの願い」を聞く。その呼応する関係によって仏さまに育てられていく生活を賜っていくのだ。「称える」の「称」は、「となえること、よぶこと」の他に、「はかる」という意味があるという。いつでもどこでも、私の心と仏さまの心を天秤にのせ、私の心は仏さまのお心にかなっているのだろうかと常に自らが問い直される生活が真宗門徒の生活であろう。

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MONTHLY

今月の言葉

今月のことば33

お盆やお彼岸、ご命日など、お内仏(仏壇)の前に座る時、あらためて亡き人のことを思い出す。そして、私の人生に亡き人の人生を重ね、私も老いて、病んで、死んでいく身の事実を突きつけられる時、何を本当に尊いこととして生きているのかと問うこととなる。嫌いな人、迷惑な人であったとしても、今は、私にたくさんの問いをなげかけてくださる大切な人となってくださっている。亡き人が、仏さま・目覚ましめるはたらきとなり、あらためて出あい直すのだ。

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MONTHLY

今月の言葉

今月の言葉32

 先日ここ3、4年会えていなかった友人が亡くなったと連絡がありました。その瞬間深い悲しみに包まれましたが、その後徐々に私に湧いてきた感情は、その訃報を届けてくれたその友人の妻に対する感謝の思いでした。「ありがとう」とここまで心の底から思ったことはありません。  私たちが日常的に使う「ありがとう」という言葉は、もともと「有り難し」から来ていて「存在することが難しい。滅多にない」という意味です。人から受ける恩もそれが当たり前だと鈍感になれば、口では「ありがとう」と言っても、ただのあいさつとなんら変わりません。ただ私たちは生死の問題の前に立つと、普段当たり前だと思ってしまうものの「有難さ」に気づか

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