「実るほど頭を垂れる稲穂かな」(作者不詳)
暑さが過ぎ去り台風も過ぎ去り稲穂が実る時期となりました。稲穂が実る姿を見ると
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉を思い出します。
実れば実るほど、まるで有難うとお辞儀をするかのように稲穂が垂れ下がる様子を詠んだ句です。
あらためて、普段の自分の姿が頭を垂れる稲穂の姿とかけ離れていると実感します。
どうしても、自分がこれまでした経験や価値観を正しいと思い込み、頭が下がらずいつの間にか傲慢になっている私がいます。
親鸞聖人はご自身のことを「愚禿」と名乗っておられます。
『愚禿鈔』には「愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」(真宗聖典p423)と書かれており、
「私の心は外見では賢く振舞っているが、その中身は煩悩にまみれ、愚かである」という意味です。
多くの研鑽を積まれてこられた親鸞聖人が「愚禿」と名乗られたお姿こそ「実るほど頭が下がる稲穂かな」の句に当てはまるのではと思います。
加藤 恵
MONTHLY
今月の言葉
今月のことば34
「南無阿弥陀仏」、それは形のない「仏さまの願い」が表された「名」。南無阿弥陀仏とお念仏を称え、その名をとおして私たちを救おうとする「仏さまの願い」を聞く。その呼応する関係によって仏さまに育てられていく生活を賜っていくのだ。「称える」の「称」は、「となえること、よぶこと」の他に、「はかる」という意味があるという。いつでもどこでも、私の心と仏さまの心を天秤にのせ、私の心は仏さまのお心にかなっているのだろうかと常に自らが問い直される生活が真宗門徒の生活であろう。
MONTHLY
今月の言葉
今月のことば33
お盆やお彼岸、ご命日など、お内仏(仏壇)の前に座る時、あらためて亡き人のことを思い出す。そして、私の人生に亡き人の人生を重ね、私も老いて、病んで、死んでいく身の事実を突きつけられる時、何を本当に尊いこととして生きているのかと問うこととなる。嫌いな人、迷惑な人であったとしても、今は、私にたくさんの問いをなげかけてくださる大切な人となってくださっている。亡き人が、仏さま・目覚ましめるはたらきとなり、あらためて出あい直すのだ。
MONTHLY
今月の言葉
今月の言葉32
先日ここ3、4年会えていなかった友人が亡くなったと連絡がありました。その瞬間深い悲しみに包まれましたが、その後徐々に私に湧いてきた感情は、その訃報を届けてくれたその友人の妻に対する感謝の思いでした。「ありがとう」とここまで心の底から思ったことはありません。 私たちが日常的に使う「ありがとう」という言葉は、もともと「有り難し」から来ていて「存在することが難しい。滅多にない」という意味です。人から受ける恩もそれが当たり前だと鈍感になれば、口では「ありがとう」と言っても、ただのあいさつとなんら変わりません。ただ私たちは生死の問題の前に立つと、普段当たり前だと思ってしまうものの「有難さ」に気づか