「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」『教行信証』総序(真宗聖典149頁)

 標記のご法語は、親鸞聖人のお書きになられた『教行信証』のはじめにあるおことばです。

 私はお寺に生活しておりますので、日頃よりご門徒さんと一緒にご法事や祥月命日などのお参りをさせて頂いておりますが、そのなかで、最近あらためて考えさせられることがあります。それは、法会の場で目の前にお座りになられているご門徒さん方がこうやって手を合わせられる、そのご縁を作ってくださっている方々のことです。先にお浄土にかえられたおじいちゃんやおばあちゃんかもしれません。お父さんやお母さんのお姿かもしれません。あるいはお盆やお彼岸などでお参りされる方の姿かもしれません。そういった「南無阿弥陀仏」と手を合わせる方々のお姿が重なり重なりして、今の私たちがあるのではないでしょうか。

 この法語の後には、「遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」ということばが続きます。親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す身となったのは、自分の力ではなく、ずっと昔からの因縁によるものであって、阿弥陀様に願われ続けてきたからなのだと深い慶びをもって語られます。

 法会にあい、手を合わされるご門徒さんのお姿に、遠くご縁を届けてくださる方々のあることを思わずにはおれません。合掌

齊藤 曉雲

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今月の言葉

今月のことば34

「南無阿弥陀仏」、それは形のない「仏さまの願い」が表された「名」。南無阿弥陀仏とお念仏を称え、その名をとおして私たちを救おうとする「仏さまの願い」を聞く。その呼応する関係によって仏さまに育てられていく生活を賜っていくのだ。「称える」の「称」は、「となえること、よぶこと」の他に、「はかる」という意味があるという。いつでもどこでも、私の心と仏さまの心を天秤にのせ、私の心は仏さまのお心にかなっているのだろうかと常に自らが問い直される生活が真宗門徒の生活であろう。

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今月の言葉

今月のことば33

お盆やお彼岸、ご命日など、お内仏(仏壇)の前に座る時、あらためて亡き人のことを思い出す。そして、私の人生に亡き人の人生を重ね、私も老いて、病んで、死んでいく身の事実を突きつけられる時、何を本当に尊いこととして生きているのかと問うこととなる。嫌いな人、迷惑な人であったとしても、今は、私にたくさんの問いをなげかけてくださる大切な人となってくださっている。亡き人が、仏さま・目覚ましめるはたらきとなり、あらためて出あい直すのだ。

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今月の言葉

今月の言葉32

 先日ここ3、4年会えていなかった友人が亡くなったと連絡がありました。その瞬間深い悲しみに包まれましたが、その後徐々に私に湧いてきた感情は、その訃報を届けてくれたその友人の妻に対する感謝の思いでした。「ありがとう」とここまで心の底から思ったことはありません。  私たちが日常的に使う「ありがとう」という言葉は、もともと「有り難し」から来ていて「存在することが難しい。滅多にない」という意味です。人から受ける恩もそれが当たり前だと鈍感になれば、口では「ありがとう」と言っても、ただのあいさつとなんら変わりません。ただ私たちは生死の問題の前に立つと、普段当たり前だと思ってしまうものの「有難さ」に気づか

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