「この光に遇(もうあ)う者は、三垢(さんく)消滅し、身意柔軟(にゅうなん)なり。歓喜踊躍(ゆやく)し、善心生ず。」(『真宗聖典』300頁)
数年前、九州大谷短期大学真宗研究所主催の教化講習会に参加しました。法話の研鑽のみならず、教行信証の学習・仏教讃歌・カウンセリングの基礎・靖国問題学習など、お寺で生活する中ですぐ役立つ学びと僧侶として常に心がけておきたい様々な学びをいただき、素晴らしい同朋とも出遇えました。自分が思っていた以上に豊かな時間を与えてくれた教化講習会という場に、感謝の気持ちでいっぱいです。
特に、齋藤豊治先生のコミュニケーション学習の中で言われた「やわらかく接する」ということを、今も日々心がけています。
私たちは、苦手な人間に会って「ダメだ」と思った瞬間、威嚇や自己防衛反応で固さが出る。そのロック状態を解く為に、脱力する、自分の体の緊張を解くことが大事だと言われました。
「人と出会う時、肩の力を抜いて出会えていますか。肩の力をダラーっと抜いて、真っ直ぐ立てます
か。それがやわらかさです。」
根がしっかりしていれば、揺れても平気な大木のように、上半身が脱力しても、下半身が安定していれば大丈夫なのだと仰いました。
先生の言葉で浮かんだのが、弥陀の三十三願・触光柔軟(そっこうにゅうなん)の願です。
「たとひ我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙(こうぶ)りてそ
の身に触(ふ)れん者、身心柔軟(しんじんにゅうなん)にして、人・天に超過せん。もし爾(し
か)らずんば、正覚を取らじ。」
(わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、私の光明に照らされて、
それを身に受けたなら身も心も和らいで、その様子は天人や人々に超えすぐれるでしょう。そうで
なければ、私は決してさとりを開きません)
(『真宗聖典』21頁)
身心柔軟の「身柔軟」というのは、弥陀の光明に触れると振舞いの荒々しさが取れ、物腰がやわらかくなるさまではないかと考えます。身心は繋がっているが故に、物腰が変われば心も変わる。「心柔軟」へと変化する。やわらかくしなやかな心の状態は、何ものが来てもびくともせぬ、金剛心と一味になった心です。脱力と安定が身にも心にも及ぶのです。
弥陀の光明に出遇った人は、そのままではいられなくなる、というのはこういう事なのではないでしょうか。
今年も、聞法し御念仏いただくという真宗門徒の生活を、大事にしていきたいと存じます。
(下津 悦子)
MONTHLY
今月の言葉
今月の言葉32
先日ここ3、4年会えていなかった友人が亡くなったと連絡がありました。その瞬間深い悲しみに包まれましたが、その後徐々に私に湧いてきた感情は、その訃報を届けてくれたその友人の妻に対する感謝の思いでした。「ありがとう」とここまで心の底から思ったことはありません。 私たちが日常的に使う「ありがとう」という言葉は、もともと「有り難し」から来ていて「存在することが難しい。滅多にない」という意味です。人から受ける恩もそれが当たり前だと鈍感になれば、口では「ありがとう」と言っても、ただのあいさつとなんら変わりません。ただ私たちは生死の問題の前に立つと、普段当たり前だと思ってしまうものの「有難さ」に気づか
MONTHLY
今月の言葉
今月の言葉31
近年、LINEやメールなどSNSを使うことから、年賀状を作って送る人が減っていると聞く。新年に配送される年賀状を見て、久しぶりに思い出す懐かしい顔も多い。その年賀状には、“今年こそ、今年こそ”の文字をよく見かける。その言葉を見ると、思いをこえて生まれながら、なんでも思いどおりにしようとする人間・私のすがたが照らされているように感じる。 私たちの人生は、思い通りにならないものなのだとあらためて教えてくださる。もちろん、自分の努力で思いが叶(かな)うことは多少なりともあるだろう。 しかし、身の事実をはじめ、多くは思いどおりにならないことばかりではないだろうか。また、自分の思いどおりになっ
MONTHLY
今月の言葉
今月の言葉30
標記のご法語は、親鸞聖人のお書きになられた『教行信証』のはじめにあるおことばです。 私はお寺に生活しておりますので、日頃よりご門徒さんと一緒にご法事や祥月命日などのお参りをさせて頂いておりますが、そのなかで、最近あらためて考えさせられることがあります。それは、法会の場で目の前にお座りになられているご門徒さん方がこうやって手を合わせられる、そのご縁を作ってくださっている方々のことです。先にお浄土にかえられたおじいちゃんやおばあちゃんかもしれません。お父さんやお母さんのお姿かもしれません。あるいはお盆やお彼岸などでお参りされる方の姿かもしれません。そういった「南無阿弥陀仏」と手を合わせる方々