善悪の字しりがおは
おおそらごとのかたちなり 親鸞聖人『正像末和讃』
私の思い込みを振りかざし、娘や妻のこころを深く傷つけていたことに気づかされたとき、このご和讃を思い出しました。
作家の高史明さんは、中学生の息子さんを自死で失くされた体験から生まれた著作『「ことばの知恵」を超えて―同行三人』(新泉社)に、このご和讃を引かれ、人間中心の知恵の闇を語ってあります。私は自分の「ことばの知恵」に酔い、のぼせていたことを、身近な人の笑顔が消えたことで知らされたのでした。
人間は多かれ少なかれ言葉の知恵を善として優劣を競い、より快適な生き方を求めることが正しいと考えていると思います。
けれども自分の言葉の知恵を疑うことなしに正しいこととして「しりがお」で世界に立った時、目の前の存在は「いのち」ではなく、上か下か、役に立つか、立たないかという「優劣・損得」でしか見えなくなるのでしょう。
そして自分は間違っていないという傲慢な態度を日常化させた生き方が「おおそらごとのかたち」であり、そこからは空しさと苦しみしか生まれないと親鸞聖人は言われていると思います。
今、インターネットやSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)を開けば、「しりがお」の言葉に簡単に出会います。その言葉は、私の「ことばの知恵」から出たものと変わらず、一方的に誰かを傷つけているのではないのでしょうか。
私が大切な人に与えた「悲しみ」はふいに顔を出し、胸を締め付けます。傷つけた事実は消えませんし、それは私の闇をこれからもあぶりだすでしょう。その闇を誤魔化すことなく引き受けなければ、親鸞聖人のみ教えが私の生活の中ではたらくことはないのだと思います。
(藤井 一成)
MONTHLY
今月の言葉
今月のことば34
「南無阿弥陀仏」、それは形のない「仏さまの願い」が表された「名」。南無阿弥陀仏とお念仏を称え、その名をとおして私たちを救おうとする「仏さまの願い」を聞く。その呼応する関係によって仏さまに育てられていく生活を賜っていくのだ。「称える」の「称」は、「となえること、よぶこと」の他に、「はかる」という意味があるという。いつでもどこでも、私の心と仏さまの心を天秤にのせ、私の心は仏さまのお心にかなっているのだろうかと常に自らが問い直される生活が真宗門徒の生活であろう。
MONTHLY
今月の言葉
今月のことば33
お盆やお彼岸、ご命日など、お内仏(仏壇)の前に座る時、あらためて亡き人のことを思い出す。そして、私の人生に亡き人の人生を重ね、私も老いて、病んで、死んでいく身の事実を突きつけられる時、何を本当に尊いこととして生きているのかと問うこととなる。嫌いな人、迷惑な人であったとしても、今は、私にたくさんの問いをなげかけてくださる大切な人となってくださっている。亡き人が、仏さま・目覚ましめるはたらきとなり、あらためて出あい直すのだ。
MONTHLY
今月の言葉
今月の言葉32
先日ここ3、4年会えていなかった友人が亡くなったと連絡がありました。その瞬間深い悲しみに包まれましたが、その後徐々に私に湧いてきた感情は、その訃報を届けてくれたその友人の妻に対する感謝の思いでした。「ありがとう」とここまで心の底から思ったことはありません。 私たちが日常的に使う「ありがとう」という言葉は、もともと「有り難し」から来ていて「存在することが難しい。滅多にない」という意味です。人から受ける恩もそれが当たり前だと鈍感になれば、口では「ありがとう」と言っても、ただのあいさつとなんら変わりません。ただ私たちは生死の問題の前に立つと、普段当たり前だと思ってしまうものの「有難さ」に気づか