たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ教行信証(総序)
3月に、一年ぶりの彼岸会をしました。法要の中で、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(聖典149頁)という聖典の言葉が思い浮かびました。
「解読教行信証上巻 東本願寺」の訳によれば、「たまたま行信を獲たなら、はるかむかしからのご縁があったことを慶ぼう」とあります。
私なりに、乱暴な訳ですが、たまたまお寺に来ようと思いたち来たならば、はるか昔からのご縁があったことを慶びましょう。そう訳しても良いかと思います。宿縁とは、遠い昔から、今ここに自分があることを支える全ての条件を言います。
今、私がいることは、私に父と母がいるからですが、その父母にも父母がおられて、その父母にも当然おられるわけです。
父と母で2人、父と母の両親で4人、そのまた両親で8人、20代迄さかのぼると100万人を越します。今私がおるということは、たくさんのいのちの繋がりを受けて生きているのです。そして、お寺にお参りに来るということは、沢山の先祖そして両親の願い、お寺を大事に思ってこられた思いやお姿を受けて今私がお寺にお参りしているのではないでしょうか。先祖は、私達をお育て下さっておるのだと思います。
亡き人を思い供養をする大切なことだと思います。しかし、供養している私達が、生きていることに喜びをもてなかったら、先祖も悲しいと思います。この世は、娑婆と言われるように苦しみ悲しみの多い世界です。しかし、苦しみや悲しみは無くならないけれども、その事を通して人生を深めて欲しいと願われている。また、私に先立って歩んで行かれた方々がおられる。そのことは、大事にしていきたいと思います。
(佐伯和則)
MONTHLY
今月の言葉
今月のことば34
「南無阿弥陀仏」、それは形のない「仏さまの願い」が表された「名」。南無阿弥陀仏とお念仏を称え、その名をとおして私たちを救おうとする「仏さまの願い」を聞く。その呼応する関係によって仏さまに育てられていく生活を賜っていくのだ。「称える」の「称」は、「となえること、よぶこと」の他に、「はかる」という意味があるという。いつでもどこでも、私の心と仏さまの心を天秤にのせ、私の心は仏さまのお心にかなっているのだろうかと常に自らが問い直される生活が真宗門徒の生活であろう。
MONTHLY
今月の言葉
今月のことば33
お盆やお彼岸、ご命日など、お内仏(仏壇)の前に座る時、あらためて亡き人のことを思い出す。そして、私の人生に亡き人の人生を重ね、私も老いて、病んで、死んでいく身の事実を突きつけられる時、何を本当に尊いこととして生きているのかと問うこととなる。嫌いな人、迷惑な人であったとしても、今は、私にたくさんの問いをなげかけてくださる大切な人となってくださっている。亡き人が、仏さま・目覚ましめるはたらきとなり、あらためて出あい直すのだ。
MONTHLY
今月の言葉
今月の言葉32
先日ここ3、4年会えていなかった友人が亡くなったと連絡がありました。その瞬間深い悲しみに包まれましたが、その後徐々に私に湧いてきた感情は、その訃報を届けてくれたその友人の妻に対する感謝の思いでした。「ありがとう」とここまで心の底から思ったことはありません。 私たちが日常的に使う「ありがとう」という言葉は、もともと「有り難し」から来ていて「存在することが難しい。滅多にない」という意味です。人から受ける恩もそれが当たり前だと鈍感になれば、口では「ありがとう」と言っても、ただのあいさつとなんら変わりません。ただ私たちは生死の問題の前に立つと、普段当たり前だと思ってしまうものの「有難さ」に気づか