独生独死 独去独来 仏説大無量寿経

私たちはどうあがいても独りで生まれそして独りで死んでいく。
その事実は決して変わりません。
なんと寂しく、そして虚しいことでしょうか。
どうにか人とつながりたいと思っても、他人の考えていることは分からず不安な毎日を送る日々です。

 

学生時代に一人暮らしをしていたのですが、無性に寂しくなる夜がありました。そんな時はドライブをしながらラジオを聞いていたものです。周りは真っ暗で誰もいない中、遠い遠い自分では行ったこともない場所から、会ったこともない人の声が電波に乗って私のもとに届く。それが不思議となぜか私の心を落ち着かせてくれていたことを思い出します。

 

直接人と会うことがしづらくなった世の中。孤独を感じる時間も増えたのではないでしょうか。独りぼっちの私。しかしそこには遠い遠い昔から、多くの人々に願われてきたお念仏の声が確実に届いているのです。

 

独りで生まれそして独りで死んでいく我が身であっても、阿弥陀様は願いをかけてくださっています。世の中がどう変化しようとも本来の人の尊さ、日常の営みの有難さは変わらないはずです。

(佐々木信行)

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今月の言葉

今月の言葉22

3月に、一年ぶりの彼岸会をしました。法要の中で、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(聖典149頁)という聖典の言葉が思い浮かびました。 「解読教行信証上巻 東本願寺」の訳によれば、「たまたま行信を獲たなら、はるかむかしからのご縁があったことを慶ぼう」とあります。 私なりに、乱暴な訳ですが、たまたまお寺に来ようと思いたち来たならば、はるか昔からのご縁があったことを慶びましょう。そう訳しても良いかと思います。宿縁とは、遠い昔から、今ここに自分があることを支える全ての条件を言います。 今、私がいることは、私に父と母がいるからですが、その父母にも父母がおられて、その父母にも当然お

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今月の言葉

今月の言葉 21

私たちは何かに傷つけられたり、悲しさや寂しさを感じるとき、「人に知られたくない」、「周りにいる人たちを心配させてはいけない」、このような思いから我慢することがあります。 我慢してじっと耐えること、それ自体は何も悪いことではありません。けれども、無理に我慢しているとその悲しみはだんだん大きくなって、やがてそれは怒りとなり、相手を傷つけたり、他の誰かに八つ当たりすることがあります。怒りをぶつけられた相手の怒りはまた他の誰かに向けられますことになります。 怒りを誰かにぶつければ、その一瞬は気持ちよく感じます。ではその後に空しさのような感覚を覚えるのはなぜでしょう。怒りをぶつけられた相手の

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今月の言葉

今月の言葉 20

大谷専修学院の元学長である竹中 智秀先生が阿弥陀様の「摂取不拾」の働きを「えらばず きらわず みすてず」とおっしゃられました。 私たちは日々の生活の中で、 選び、好き嫌いをし、いろいろなものを排除してしまいがちです。しかしそれは裏を返せば、自分も他の人から「選ばれ、嫌われ、見捨てられ」ていることでしょう。 そのことに気づいたとき、最初は傷つき、終いには自らを選び、嫌い、見捨てていくかもしれません。 「摂取不捨」の阿弥陀様のお心は、そんな弱さを持った凡夫に過ぎない私たちをつねに見て下さり、決してお前を見捨てはしないよと語りかけてくださる心なのだとおもいます。

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