善悪の字しりがおは
おおそらごとのかたちなり 親鸞聖人『正像末和讃』

私の思い込みを振りかざし、娘や妻のこころを深く傷つけていたことに気づかされたとき、このご和讃を思い出しました。

 

作家の高史明さんは、中学生の息子さんを自死で失くされた体験から生まれた著作『「ことばの知恵」を超えて―同行三人』(新泉社)に、このご和讃を引かれ、人間中心の知恵の闇を語ってあります。私は自分の「ことばの知恵」に酔い、のぼせていたことを、身近な人の笑顔が消えたことで知らされたのでした。

 

人間は多かれ少なかれ言葉の知恵を善として優劣を競い、より快適な生き方を求めることが正しいと考えていると思います。

 

けれども自分の言葉の知恵を疑うことなしに正しいこととして「しりがお」で世界に立った時、目の前の存在は「いのち」ではなく、上か下か、役に立つか、立たないかという「優劣・損得」でしか見えなくなるのでしょう。

 

そして自分は間違っていないという傲慢な態度を日常化させた生き方が「おおそらごとのかたち」であり、そこからは空しさと苦しみしか生まれないと親鸞聖人は言われていると思います。

 

今、インターネットやSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)を開けば、「しりがお」の言葉に簡単に出会います。その言葉は、私の「ことばの知恵」から出たものと変わらず、一方的に誰かを傷つけているのではないのでしょうか。

 

私が大切な人に与えた「悲しみ」はふいに顔を出し、胸を締め付けます。傷つけた事実は消えませんし、それは私の闇をこれからもあぶりだすでしょう。その闇を誤魔化すことなく引き受けなければ、親鸞聖人のみ教えが私の生活の中ではたらくことはないのだと思います。

(藤井 一成)

MONTHLY

今月の言葉

今月の言葉32

 先日ここ3、4年会えていなかった友人が亡くなったと連絡がありました。その瞬間深い悲しみに包まれましたが、その後徐々に私に湧いてきた感情は、その訃報を届けてくれたその友人の妻に対する感謝の思いでした。「ありがとう」とここまで心の底から思ったことはありません。  私たちが日常的に使う「ありがとう」という言葉は、もともと「有り難し」から来ていて「存在することが難しい。滅多にない」という意味です。人から受ける恩もそれが当たり前だと鈍感になれば、口では「ありがとう」と言っても、ただのあいさつとなんら変わりません。ただ私たちは生死の問題の前に立つと、普段当たり前だと思ってしまうものの「有難さ」に気づか

詳しく読む

MONTHLY

今月の言葉

今月の言葉31

 近年、LINEやメールなどSNSを使うことから、年賀状を作って送る人が減っていると聞く。新年に配送される年賀状を見て、久しぶりに思い出す懐かしい顔も多い。その年賀状には、“今年こそ、今年こそ”の文字をよく見かける。その言葉を見ると、思いをこえて生まれながら、なんでも思いどおりにしようとする人間・私のすがたが照らされているように感じる。  私たちの人生は、思い通りにならないものなのだとあらためて教えてくださる。もちろん、自分の努力で思いが叶(かな)うことは多少なりともあるだろう。  しかし、身の事実をはじめ、多くは思いどおりにならないことばかりではないだろうか。また、自分の思いどおりになっ

詳しく読む

MONTHLY

今月の言葉

今月の言葉30

 標記のご法語は、親鸞聖人のお書きになられた『教行信証』のはじめにあるおことばです。  私はお寺に生活しておりますので、日頃よりご門徒さんと一緒にご法事や祥月命日などのお参りをさせて頂いておりますが、そのなかで、最近あらためて考えさせられることがあります。それは、法会の場で目の前にお座りになられているご門徒さん方がこうやって手を合わせられる、そのご縁を作ってくださっている方々のことです。先にお浄土にかえられたおじいちゃんやおばあちゃんかもしれません。お父さんやお母さんのお姿かもしれません。あるいはお盆やお彼岸などでお参りされる方の姿かもしれません。そういった「南無阿弥陀仏」と手を合わせる方々

詳しく読む