[今月のコラム]聴聞

真宗大谷派九州教区
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[今月のコラム]聴聞

2026.07.01

「聴聞」という言葉を辞書で調べると、「聴は、耳をそばだてて聞くこと。注意して聞くこと。聞は聞こえてくるとういうこと。」とある。
私たちが、音楽を鑑賞する時や相手の話に注意深く耳を傾ける時、またお医者さんが患者さんの体内の音を聴く聴診器など、外から聴きに往くものには「聴」の字が使われる。つまり、注意をして聴く、こちらから積極的に聴くという時に使われる。一方、雨音や風の音、蝉の鳴き声などが聞こえてくる時など、こちらが聞こうとしている、していないに関わらず、聞こえてくるという時、つまり受動的にきく時に「聞」の字が使われる。
そして、ご法話などでは、「聴聞の聴は耳できくこと。聞は心できくこと」、「住くを聴といい、来るを聞という」(中国の古い辞書『説文解字』に由来すると言われている言葉)、「聴なくして聞なし。されど聴の延長線上に聞があるのではない。聞は聴を否定する領域である。」など、様々な言葉で教えていただく。
また、宗祖親鸞聖人は、教行信証の「聴聞」という文字に「ユルサレテキク シンジテキク」と左訓(本文の左に付記された語句の注釈)を付している。「ユルサレテキク」ということは、縁あって聴くことの出来る身にさせていただいたということなのであろうか。また、「シンジテキク」とは、如来の仰せを自己自身に聞きひらくということを示しているのであろうか。分かったつもりで使っている「聴聞」という言葉について、あらためて向き合ってみなければと思う。