今月の言葉6
2019.12.05
人は法を求むるに止まって、 法に生きることを忘れている
高光大船
ある日、東本願寺の渡り廊下を歩いていると、掲示されているこの言葉に足が止まった。
「私は学習会に行ったりしているが、その場に行ったことに満足してそこから何か変わっただろうか。ただの知識になっているのではないか」
前々から思ってはいたけれど、なるべく考えないようにしていた自分の心を言い当てられたような気がして、ぎくっとしたからである。
今まで何度も「生活の中で念仏するのではなく、念仏の上に生活がいとなまれる」と和田稠先生の言葉を講義などで、うんうんと頷きつつ聞いてきた。しかし、できていない自分に気づきはしても「あ~できないなぁ」で終わらせている私がいた。
見ないふりをしていたのである。
法を求めるふりをして、そういう場に行って学ぶ自分という自己満足を満たすためにいっていたのではないかと、この言葉を見た時に感じた。
同時に「はたして私は法を求めているのだろうか、法を求めるとはどういうことなのか。
法に生きるとはどういうことなのか、お念仏の生活が頂けているだろうか」という問題から目をそらすな、如来の、私の声を聞きなさいと言われている言葉のように感じた。
(林田 真貴子)