私が さびしいときに
仏さまは さびしいの金子 みすゞ
新型コロナの感染対策が最も求められているのが、医療機関や福祉施設。
もし感染すれば重症化する可能性が高いということで、面会も最小限に制限されています。
特に入院生活では、不安な気持ちで過ごす方がほとんどでしょう。そんなとき、家族や友人の面会や励ましが、なんと温かいことか。
しかし今、多くの病院や施設で面会が制限され、ベッドの上で、孤独を抱えている人がいます。
私は何ができるのか。そんなことを考えていたら、金子みすゞさんのこの詩が思い出されました。
さびしいとき
私がさびしいときに、
よその人は知らないの。
私がさびしいときに、
お友だちは笑ふの。
私がさびしいときに、
お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、
仏さまはさびしいの。
さびしいとき、他人にはわかりません。
友は笑って、「頑張れ」と励まします。
母は、やさしく寄り添います。
でも、本当の私の苦しみを、誰もわかってくれない。
そんな孤独や疎外の中で、“仏さま”というはたらきを、金子みすゞさんは見出しています。
さびしいとき、つらいとき、どうしようもないとき、そうでないときも、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と念仏申す。浄土真宗の行は、そこに尽くされています。
その声は、私の口から出る仏の声。わたしのさびしさをそのまま抱きしめて、「助けるぞ」「大丈夫」と呼びかけています。
さびしいときは、さびしいままに。
(溝邊伸)
MONTHLY
今月の言葉
今月のことば34
「南無阿弥陀仏」、それは形のない「仏さまの願い」が表された「名」。南無阿弥陀仏とお念仏を称え、その名をとおして私たちを救おうとする「仏さまの願い」を聞く。その呼応する関係によって仏さまに育てられていく生活を賜っていくのだ。「称える」の「称」は、「となえること、よぶこと」の他に、「はかる」という意味があるという。いつでもどこでも、私の心と仏さまの心を天秤にのせ、私の心は仏さまのお心にかなっているのだろうかと常に自らが問い直される生活が真宗門徒の生活であろう。
MONTHLY
今月の言葉
今月のことば33
お盆やお彼岸、ご命日など、お内仏(仏壇)の前に座る時、あらためて亡き人のことを思い出す。そして、私の人生に亡き人の人生を重ね、私も老いて、病んで、死んでいく身の事実を突きつけられる時、何を本当に尊いこととして生きているのかと問うこととなる。嫌いな人、迷惑な人であったとしても、今は、私にたくさんの問いをなげかけてくださる大切な人となってくださっている。亡き人が、仏さま・目覚ましめるはたらきとなり、あらためて出あい直すのだ。
MONTHLY
今月の言葉
今月の言葉32
先日ここ3、4年会えていなかった友人が亡くなったと連絡がありました。その瞬間深い悲しみに包まれましたが、その後徐々に私に湧いてきた感情は、その訃報を届けてくれたその友人の妻に対する感謝の思いでした。「ありがとう」とここまで心の底から思ったことはありません。 私たちが日常的に使う「ありがとう」という言葉は、もともと「有り難し」から来ていて「存在することが難しい。滅多にない」という意味です。人から受ける恩もそれが当たり前だと鈍感になれば、口では「ありがとう」と言っても、ただのあいさつとなんら変わりません。ただ私たちは生死の問題の前に立つと、普段当たり前だと思ってしまうものの「有難さ」に気づか