釈迦弥陀は慈悲の父母 種種の善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり親鸞聖人『高僧和讃』
このご和讃は、親鸞聖人が七高僧のおひとりであります善導大師についてお詠みになられたなかの一首です。
慈悲とは、衆生を慈しんで楽を与え、憐みいたんで苦を取り除くおこころですが、そのおこころを父のごとく、母のごとくとお喩えになられています。
私たちにとって父、母とはどのような存在でしょうか。さまざまに思われるところもあると思いますが、一つ大切なこととして私(わたくし)をお育ててくださった方ということがあるのではないでしょうか。もう少しことばを足すと、私の望む、望まないを超えて、それに先立って私の幸せを願いながらお育てくださった方ということでしょう。
このご和讃をいただくとき、釈迦・弥陀が、巧みに善く手だてをめぐらして私たちに信心を起こさせようとするおこころと、父母が子を育(はぐく)むすがたとが重なって聞かされ、みほとけの御恩の深さをあらためて感じさせられます。
(齊藤曉雲)
MONTHLY
今月の言葉
今月のことば34
「南無阿弥陀仏」、それは形のない「仏さまの願い」が表された「名」。南無阿弥陀仏とお念仏を称え、その名をとおして私たちを救おうとする「仏さまの願い」を聞く。その呼応する関係によって仏さまに育てられていく生活を賜っていくのだ。「称える」の「称」は、「となえること、よぶこと」の他に、「はかる」という意味があるという。いつでもどこでも、私の心と仏さまの心を天秤にのせ、私の心は仏さまのお心にかなっているのだろうかと常に自らが問い直される生活が真宗門徒の生活であろう。
MONTHLY
今月の言葉
今月のことば33
お盆やお彼岸、ご命日など、お内仏(仏壇)の前に座る時、あらためて亡き人のことを思い出す。そして、私の人生に亡き人の人生を重ね、私も老いて、病んで、死んでいく身の事実を突きつけられる時、何を本当に尊いこととして生きているのかと問うこととなる。嫌いな人、迷惑な人であったとしても、今は、私にたくさんの問いをなげかけてくださる大切な人となってくださっている。亡き人が、仏さま・目覚ましめるはたらきとなり、あらためて出あい直すのだ。
MONTHLY
今月の言葉
今月の言葉32
先日ここ3、4年会えていなかった友人が亡くなったと連絡がありました。その瞬間深い悲しみに包まれましたが、その後徐々に私に湧いてきた感情は、その訃報を届けてくれたその友人の妻に対する感謝の思いでした。「ありがとう」とここまで心の底から思ったことはありません。 私たちが日常的に使う「ありがとう」という言葉は、もともと「有り難し」から来ていて「存在することが難しい。滅多にない」という意味です。人から受ける恩もそれが当たり前だと鈍感になれば、口では「ありがとう」と言っても、ただのあいさつとなんら変わりません。ただ私たちは生死の問題の前に立つと、普段当たり前だと思ってしまうものの「有難さ」に気づか