[今月のコラム]教えにあうということ
2025.07.01
特に季節の変わり目、体調がすぐれず、もしかしたら病気なのかなあ?と一人で思い悩んだことのある人も多いのではないだろうか。一人で思い悩んでいる時、大きな不安に苛まれる。しかし、病院に行ってお医者さんに診てもらい、「○○ですよ」と言われると、不安だった心はなぜか治まり、安心感に包まれるといった経験は無いだろうか。確かにその時は重病では無かったということもあるのであろうが、しかし病名がわかると何か安心する気持ちになる。つまり、お医者さんの言葉が、「教え」になったということなのではないだろうか。自分一人のところで考え悩んでいる間は思い悩んでしまう。しかし、お医者さんが「○○ですよ」、「○○だから痛むんですよ」、「○○というお薬を飲みなさい」、「○○という治療法がありますよ」などと言われ、「ハイわかりました」と頷くことが出来るのならば安心するのである。
宗教のもつ役割もどこか似ているようだ。病状・現状は変わらないが、「安心する」、「ホッとする」。「教え」というものによって、不安が満ち溢れていたこの私の心が、寂かに定まっていくということがあるのではないだろうか。
しかし、多くの宗教・教えとよばれるものがある中で、それが真実の教えなのか、それとも人間の都合を主としている教えなのか。そしてまた、どんな人に出会うのかが大切なことなのではないだろうか。