[今月のコラム]意味
2026.03.01
あなたは、生活の中での様々な事柄に行き詰まり、悩み苦しみ、「生まれたこと」や「生きること」の「意味」を考えたことはないだろうか。
あるお母さんが、「子供がいるから頑張れるし、生きている意味があるんだ」と語っていた。しかし、その言葉を裏返すと「子供がいなくなったら生きている意味は無い」ともなってしまわないだろうか。子供がいる人は確かに皆頷くだろう。しかし、子供がいない人にとっては頷けない言葉である。
つまり、このことは「人」として誰しもが言える意味、誰しもがうなづける意味、どんな人にも共通する意味ではないのであろう。
どうやら、「生まれたこと」や「生きることの意味」を考える時、「私が」という自我を離れられないようだ。つまり「私の生き甲斐」という範疇を出られないのではないだろうか。勿論、「生き甲斐」というものを決して否定するものではない。生き甲斐を奪われると生きていく意欲さえも失われてしまう。しかし、自分の思い・都合が叶えば、生きている意味があり、叶わなければ生まれたことも、生きていることも意味が無いということになってしまいかねない。その時々の自分の都合で、生きる意味さえも変わっていくのではないだろうか。
人間はどんなことにも「意味」を求める生きものである。しかし、その「意味づけ」は、どこまでも自我分別のものさしを脱しきれないのではないだろうか。「意味」を求め「意味」に迷い「意味」に沈んでいく人間。そんな意味付けや価値付けが破られ、在るがままをよしとする世界が仏さんの世界ではないだろうか。
第1期九州教区慶讃法要をお迎えする今、テーマ「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」という呼びかけは、私に何を問いかけているのだろうか。
