[今月のコラム]意巧に聞く

真宗大谷派九州教区
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[今月のコラム]意巧に聞く

2026.05.01

お寺でのご法話が終わった後などに聞こえてくる声は様々である。「今日のご法話は難しくて全然わからなかったわね」、「今日のお話は分かり易かったわね」、「あの先生は良いこと言うわね」、「今日の話は仕事の参考になったわ」、「帰ったら今日の話を子供にしないと…」、「お話を聞かせてもらっているから私の家はいつも円満です」、「いつ死んでも良いように聞かせてもらっています」等々。これらの言葉からあなたは何を感じるだろうか。
仏法を聞くというとき、自己自身を深く見つめ直すどころか、自我が仏法をも利用しようとすることを教えられる。自分の思いを満たそうと、仏法をも私の思いを叶える道具にしてしまっているのだ。
蓮如上人は、「四、五人の衆、寄り合い談合せよ。必ず五人は五人ながら意巧にきく物なり。能く能く談合すべき」と、仏さまの教えを聞いても、各々が心巧みに自分の都合の良いように聞いていくことがあるのだと指摘してくださっている。
「意巧」という言葉を辞書で引くと、「意匠と巧みを組み合わせた概念で、創意工夫や巧な技術を用いたデザインや工夫を指す表現」なのだそうだ。つまり、自分の思いを叶えようと、聞いた話をあれこれと自分の都合の良いように受け止め、また、話をある意味加工し納得していこうとするのだろう。
しかし本来、仏さまの教えを聞くということは、仏法をも利用しようとするそんな私たちの都合という「ものさし」を問い直させていただくことではないのか。
聞法生活とは、誤魔化しようのない自分の相(すがた)が照らし出され、私たちの物の見方や考え方、発想が根本的にひっくり返る、そういう生活を賜っていく歩みなのではないだろうか。
「意巧に聞く」ということから改めて私の聞法の質が問われている。