人間は生死(しょうじ)の苦しみをのがれようとして、生死に苦しんでいる曽我 量深

わたしたちは、なるべく悲しみには出会わずに日々を楽しく生きたいと、つい非現実的な在り方に埋没しそうになります。

そういう風に、明るく元気に、そして病気をせず長生きすることが美徳だと思えば思うほど、死に往かなければならない我が身を嘆き、そのことを思う度に苦しまなければなりません。

それは自ら造った苦しみに自らが苦しめられていることになるのです。

 

わたしたちは「生あるものは死に帰す」という『無常の道理の中に生まれた自分』であるということを受け入れられないが故に苦しんでいます。

ですから、生死の苦しみから逃れるという在り方は、現実的ではないのです。

むしろそれを受け入れられないとしても、それを受け入れようとする心のおこるところに真に自由なる世界(=浄土)が開けてくるのです。

 

(亀井攝)

MONTHLY

今月の言葉

今月の言葉22

3月に、一年ぶりの彼岸会をしました。法要の中で、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(聖典149頁)という聖典の言葉が思い浮かびました。 「解読教行信証上巻 東本願寺」の訳によれば、「たまたま行信を獲たなら、はるかむかしからのご縁があったことを慶ぼう」とあります。 私なりに、乱暴な訳ですが、たまたまお寺に来ようと思いたち来たならば、はるか昔からのご縁があったことを慶びましょう。そう訳しても良いかと思います。宿縁とは、遠い昔から、今ここに自分があることを支える全ての条件を言います。 今、私がいることは、私に父と母がいるからですが、その父母にも父母がおられて、その父母にも当然お

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今月の言葉

今月の言葉 21

私たちは何かに傷つけられたり、悲しさや寂しさを感じるとき、「人に知られたくない」、「周りにいる人たちを心配させてはいけない」、このような思いから我慢することがあります。 我慢してじっと耐えること、それ自体は何も悪いことではありません。けれども、無理に我慢しているとその悲しみはだんだん大きくなって、やがてそれは怒りとなり、相手を傷つけたり、他の誰かに八つ当たりすることがあります。怒りをぶつけられた相手の怒りはまた他の誰かに向けられますことになります。 怒りを誰かにぶつければ、その一瞬は気持ちよく感じます。ではその後に空しさのような感覚を覚えるのはなぜでしょう。怒りをぶつけられた相手の

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今月の言葉

今月の言葉 20

大谷専修学院の元学長である竹中 智秀先生が阿弥陀様の「摂取不拾」の働きを「えらばず きらわず みすてず」とおっしゃられました。 私たちは日々の生活の中で、 選び、好き嫌いをし、いろいろなものを排除してしまいがちです。しかしそれは裏を返せば、自分も他の人から「選ばれ、嫌われ、見捨てられ」ていることでしょう。 そのことに気づいたとき、最初は傷つき、終いには自らを選び、嫌い、見捨てていくかもしれません。 「摂取不捨」の阿弥陀様のお心は、そんな弱さを持った凡夫に過ぎない私たちをつねに見て下さり、決してお前を見捨てはしないよと語りかけてくださる心なのだとおもいます。

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